鉄骨で日本を支える
川岸工業は2026年3月22日、
創業120周年を迎えました。
支えていただいた
すべての皆様へ感謝の気持ちを込めて、
歩んできた軌跡と、未来へつなぐ想いを
お伝えします。
History 120年のあゆみ
大阪の現場鍛冶として始まった
川岸工業の鉄骨製造は、
九州での事業拡大を経て、
東京を本拠に各地に拠点を構え、
全国の建築とインフラを
支える確かな歩みを刻んできました。
積み上げてきた技術と人の力を礎とし、
これからも次代へつないでまいります。
明治の産業革命を経て近代化へ
川岸工業が創業した明治後期から戦前の日本は、製鉄や造船を中心とする重工業が発展し、第二次産業革命期を迎えていました。鉄骨造建築の登場やアーク溶接技術の伝来により、建築技術は大きく進展します。産業技術の高度化とともに、近代化を支えるインフラ整備や建築事業が本格化していきました。
創業期1906~1946
川岸工業所、大阪で誕生
――そして念願の九州進出
川岸工業の歴史は、1906年3月22日、初代社長・川岸太一郎が大阪市大正区三軒家に「川岸工業所」を創業したことに始まります。
放送局の鉄塔や鉄道橋梁等の現場組立工事などを手がけ着実に技術力を高めた結果、事業の範囲は四国・近畿から新潟へと広がっていきました。一方で、大陸への窓口であり、小倉の軍都化や旧日本製鐵の八幡製鐵所などの工場群の発展が著しかった九州にはなかなか進出できずにいました。
1934年の日本製鐵八幡製鐵所の第一製鋼工場追加鉄骨工事を受注し、ついに念願の九州進出を果たすこととなりました。
初代社長・川岸太一郎が大阪市大正区三軒家に川岸工業所を創業
土佐放送用鉄塔組立据付工事
(現場工事のみ)
‖工事経歴書に残る最初の仕事です。
桶狭間放送鉄骨製作組立工事
‖工事経歴書に残る最初の鉄骨製作工事です。
八幡製鐵所第一製鋼工場追加鉄骨工事
‖九州進出の足掛かりになった工事です。
九州に進出、福岡県戸畑市(現北九州市)に出張所を開設
‖出張所の裏手に作業場を設置。のちの戸畑工場となります。
勝鬨橋三期工事可動橋架設工事
(現場工事のみ)
信濃川千手発電所新築工事
(現場工事のみ)
‖九州を拠点に、各地の施工にも携わっていました。
陸軍小倉工廠第一期新築工事
‖九州の事業基盤を着実に固めていきました。
初代社長の川岸太一郎が逝去
川岸重義が二代目社長に就任
戦後から高度経済成長期へ
戦後の日本は朝鮮特需を契機に復興が加速し、インフラ再整備と内需主導の経済成長が進展しました。1950年代には高度経済成長期を迎え、産業活動は量・質ともに拡大し、その勢いは1964年の東京オリンピックで一つの頂点に達します。鉄骨分野でも鋼材規格や建築工事標準仕様書の整備が進み、現在につながる建築技術の基盤が形づくられていきました。
拡大期1947~1963
九州から全国へ――拡大と飛躍の時代
戦後の復興期を経て、川岸工業は九州を拠点に事業基盤を着実に強化していきました。牧山・中井・小倉・日明などに計9工場を稼働させ、地域産業の再興を現場から支えます。なかでも牧山工場は、当時の生産を担う中核拠点でした。
やがて事業は本州へと拡大。下松、福山、大阪、仙台などに工場を新設し、需要の広がりに応えていきました。高度経済成長に沸く首都圏への進出を見据え、1963年には千葉工場(現・千葉第一工場)を新設します。その規模は、当時のメイン工場であった牧山工場と同等という、社運を懸けた計画でした。
この決断にあたり、戸畑工場や日明工場を閉鎖し、そこで働いていた作業員とともに拠点を千葉へ移すという大きな転換を選択します。設備だけでなく、人と技術、現場の経験を丸ごと首都圏へ持ち込むことで、確かな生産力を一気に移植しました。
こうして首都圏進出を果たした川岸工業は、八幡製鐵君津製鐵所建設工事をはじめとする大型需要を捉え、全国規模で事業を展開する企業へと飛躍していきます。
川岸工業所を法人化し川岸工業株式会社を設立
戸畑出張所を戸畑支店に昇格
戸畑作業所を拡張し、戸畑工場を設立
二代目・川岸重義が近鉄奈良線列車暴走追突事故に巻き込まれ逝去
本社を福岡県戸畑市(現北九州市)に移転
福岡県小倉市(現北九州市)に小倉工場を設立
工藤栄が三代目社長に就任
フイリツピン製鋼工場建屋鉄骨製作
‖川岸工業にとって最初の海外工事の実績です。
福岡県小倉市(現北九州市)に東港工場を設立
福岡県戸畑市(現北九州市)に沖台工場を設立
関連会社川岸鉄工株式会社を設立し、東日本での営業を開始
製造は川岸鉄工傘下の仙台工場
東京出張所を神田鎌倉町に開設
山口県下松市に下松工場を設立
福岡県小倉市(現北九州市)に中井工場を設立
福岡県福岡市に本社を移転
福岡県小倉市(現北九州市)に日明工場を設立
八幡製鐵戸畑転炉工場鉄骨工事
福岡県戸畑市(現北九州市)に牧山工場を設立
八幡製鐵光鋳造所鉄骨工事
‖下松工場設立の一因となる工事です。
小倉製鉄所転炉工場建屋鉄骨工事
‖九州における鉄骨製造業の代表企業として知られるきっかけとなった工事の一つです。
広島県福山市に福山作業所を開設
ブラジル・ウジミナス製鉄所鉄骨工事
‖日本とブラジルの合弁による国際プロジェクトへの参画です。
若戸橋若松側取付橋鉄骨工事
‖九州における鉄骨製造業の代表企業として知られるきっかけとなった工事の一つです。
川岸鉄工株式会社を吸収合併
若松火力発電所タービン室及びボイラー室鉄骨工事他
‖九州における鉄骨製造業の代表企業として知られるきっかけとなった工事の一つです。
東京証券取引所市場第二部及び福岡証券取引所市場に上場
本社を東京都中央区銀座に移転
長崎県佐世保市に佐世保工場を新設
戸畑工場及び日明工場を閉鎖
‖従業員のほとんどは翌年新設した千葉工場に異動しました。
山口県徳山市(現周南市)に徳山工場を新設し、下松工場から機能移転
千葉県柏市に千葉工場を新設
昭和40年不況からいざなぎ景気へ
東京オリンピック後の反動を背景に、1965年には昭和40年不況が発生し、企業業績の悪化や設備投資の減少が顕在化しました。しかし不況は短期間で収束し、日本経済はいざなぎ景気へと転じていきます。建築分野では1963年の建築基準法改正により高さ制限が緩和され、都市部を中心に超高層建築の時代が本格的に始まりました。
転換期1964~1971
逆風を越え――再編と再出発の時代
当時の受注は鉄鋼や電力関連の設備投資工事に大きく依存しており、1960年代以降の景気変動によって仕事量が急減する時期が訪れました。急激な事業拡大に伴う過大な設備投資も経営を圧迫し、全社的な再編が避けられない状況となります。
一方で、1963年には建築基準法が改正され、従来の高さ制限31メートルを超える高層ビル建設が可能に。1968年の霞が関ビルディングを皮切りに日本は本格的な超高層建築時代へと踏み出しました。当社も1971年の森永エンゼルプラザービルを手始めに、この新たな潮流へ積極的に参画していきます。
こうした需要構造の変化に対応するため、1963年に千葉工場(現・千葉第一工場)を新設したのを皮切りに、1968年に千葉第二工場、1970年に千葉第三工場、1971年に市原工場と、首都圏における生産拠点の整備を進め、首都圏の供給力を強化しました。さらに西日本でも鉄骨需要が拡大し、大阪工場や福山工場の整備など地域特性に合わせた拠点拡張を進めました。これら全国的な再編と新設工場の整備が、現在につながる生産体制の原型を形づくることとなりました。
ホテルニューオータニ新築工事
‖当社でロールH形鋼を使い始めた工事です。
大阪府羽曳野市に大阪工場を設立
日本鋼管福山製鉄所冷延一期鉄骨工事他
‖福山工場設立の一因になる工事です。
川崎製鉄千葉製鉄所鉄骨工事
‖千葉工場設立の一因になる工事です。
千葉県君津市の八幡製鐵(現日本製鉄)君津製鐵所内に君津工作所を設置
福山作業所を福山工場に増設・改称
製作子会社であった牧山工作と小倉工作を統合し、西日本川岸工業株式会社へ改称
‖あわせて九州・四国エリアの営業権および牧山・小倉両工場を譲渡し、当社は九州圏の事業を整理しました。
広島県広島市に広島支店を開設
大阪府羽曳野市に大阪支店を開設
八幡製鐵君津製鐵所冷間圧延設備工場鉄骨工事
‖千葉工場設立の一因になる工事です。
神戸製鋼所加古川工場建屋鉄骨工事
‖大阪工場設立の一因になる工事です。
千葉県柏市に千葉第二工場を新設
川岸会館ビルの落成
本社を東京都港区新橋の川岸会館ビルに移転
千葉県東葛飾郡沼南町(現柏市)に千葉第三工場を新設
森永エンゼルプラザービル新築工事
‖当社で初めてのBOX造超高層建築鉄骨による工事です。
君津工作所閉鎖に伴い千葉県市原市に市原工場を新設
柏駅東口市街地再開発施設鉄骨工事他
‖基幹工場の所在地に根付いた工事です。
列島改造ブームからオイルショックを
へてバブル景気へ
日本経済は1960年代後半から本格化した超高層建築や都市開発を背景に、大規模開発が進みました。しかし第一次オイルショックを契機に、量的拡大から効率性を重視する方向へと転換します。1980年代には内需主導の景気拡大によりバブル景気を迎え、建築分野では大型化・高層化が進展し、鉄骨にもより高い品質や精度、生産性が求められる時代となりました。
再構築・飛躍期1972~1995
新たな頂へ――再構築からの飛躍の時代
1970年代から80年代にかけて、建築需要の拡大とともに技術革新を進め、国内外で数多くの大型プロジェクトを手がけるようになりました。大型ビルドH形鋼やBOX構造、コラム柱など、時代を先取りした建築技術をいち早く導入し、高層建築や複合施設の鉄骨工事において確かな実績を積み重ねました。
1980年代にはバブル経済を背景に海外案件も拡大し、エジプト・アレキサンドリアナショナル製鉄所をはじめとする大型プロジェクトにも参画。結果、鉄骨生産量で日本一を誇るまでに成長し、技術力と生産体制の強化によって経営は一層安定化し、堅実かつ持続的な成長基盤を築き上げました。
福島勲が四代目社長に就任
兵庫県尼崎市に尼崎丸島工場を設立
岡山県笠岡市に岡山工場を新設し、福山工場から機能移転
アレキサンドリアナショナル製鉄所建設工事
‖バブル期の海外受注工事です。
イラク合同庁舎鉄骨工事
‖バブル期の海外受注工事です。
千葉県山武郡松尾町(山武市)に千葉第五工場を新設
川岸工事株式会社を設立
千葉第一工場が鉄骨製作工場認定制度で最高位のSグレードを取得
東京都新庁舎第一本庁舎工事
‖竣工時サンシャイン60を抜いて日本一の高さを誇った新庁舎の建設に参画しました。
茨城県結城郡千代川村(現下妻市)に筑波工場を新設
恵比寿ガーデンプレイスオフィス棟鉄骨工事(恵比寿ガーデンプレイスタワー)
‖恵比寿の再開発によって誕生した複合都市の中核として、先進的なオフィス機能と都市景観を支えるランドマーク形成に、鉄骨工事で参画しました。
横浜ランドマークタワー新築工事
‖竣工時、東京都第一本庁舎を抜き、
2012年あべのハルカスの竣工まで日本一の高さを誇った横浜ランドマークタワーの建設に参画しました。
バブル崩壊から建設需要回復へ
バブル崩壊後の日本では、長期的な景気低迷により建設投資が縮小し、鉄骨需要も1990年代を境に減少局面へ転じました。1995年の阪神・淡路大震災を契機に構造安全性への関心が高まり、1990年代後半には法改正や規格整備が進展します。こうした流れの中で、建築・鉄骨分野では、量の拡大を追う時代から、性能と信頼性を重視する段階へと軸足を移し、事業環境が再構築されていきました。
その後も需要は力強さを欠く状況が続きましたが、2013年の東京オリンピック開催決定は市場に新たな動きをもたらし、都市再開発やインフラ整備への投資が活発化しました。建築需要も徐々に回復基調を示すようになります。
確立期1996~2014
新たな基盤へ
――変化の時代を越えて築いた確かな基盤
バブル経済が崩壊した1990年代後半以降、建設投資は減少に転じ、鉄骨需要も急減する厳しい局面を迎えました。
こうした環境の中、当社は拡大路線を抑え、堅実経営へと舵を切りました。1999年の山口工場整備や2011年の千葉第五工場閉鎖など、生産体制の再編を推進。体力維持を最優先とする方針のもと、施策を着実に積み重ね、技術力を蓄積するとともに、それを支える生産体制を構築しました。
この生産体制の構築は、競合他社の淘汰が進む厳しい市場環境の中にあっても、経営基盤を維持する礎となりました。
川岸隆一が五代目社長に就任
山口県下松市に山口工場を新設し、徳山工場から機能移転
千葉第二工場を工場としての操業を中止、千葉第一工場の第二加工場となる
川岸プランニング株式会社を設立
株式会社サクラダと資本・業務提携
(仮称)丸ノ内ビルヂング新築工事(丸の内ビルディング)
‖日本の建設現場で初めて昼夜交代制(24時間施工体制)を全面的に導入した大規模プロジェクトでした。
山口県下松市の山口工場内に中国支店を開設
‖広島支店は、中国支店に機能移転して広島営業所と改称し、福岡証券取引所での上場を廃止しました。
東京支店と工場の総務・経理等の事務機能を統合、千葉第一工場内に集約
新丸の内ビル新築工事(新丸の内ビルディング)
‖丸の内の景観と都市機能を支える、超高層複合ビルに鉄骨工事で参画しました。
東京駅八重洲口開発計画南棟新築工事(グラントウキョウサウスタワー)
‖新幹線が行き交う東京駅八重洲口において、未来を象徴する新たなランドマークの建設に参画しました。
千葉第五工場を閉鎖
大手町一丁目第2地区再開発事業A棟新築工事(大手町フィナンシャルシティ サウスタワー)
‖ビジネス拠点・大手町の再開発を象徴する超高層オフィスとして、高い耐震性と都市機能を支える建設に鉄骨工事で参画しました。
新タワー建設工事(東京スカイツリー®)
‖電波塔として世界一の高さを誇る、日本を代表するランドマークの鼎に鉄骨工事で参画しました。
大阪支店を中国支店に統合
中国支店を西日本支店に改称
建設需要の拡大から現在へ
東京オリンピック開催決定を契機に、建設投資と再開発需要は回復基調を強め、都市機能の高度化を目指す動きが加速しました。大会関連施設や都市インフラ整備が需要を押し上げる一方、建設業界では労働人口の減少と高齢化が顕在化します。量的回復と構造的課題が併存する中、効率化や技術革新への対応に加え、持続可能な人材確保や働き方改革が重要なテーマとなりました。こうした環境の中で、建設業界は安全・品質・環境配慮といった社会的要請にも応えながら、質的深化を伴う次なる成長段階へと移行しつつあります。
進化期2015~2026
さらなる高みへ
――確立した基盤を礎に進化する企業
2015年以降、建設需要が回復基調を示すなか、当社は確立された生産体制と技術力を礎として、さらなる高度化を進めました。省力化技術の導入や設備更新、技術継承が段階的に実施され、対応可能な工事領域が拡大しました。
新国立競技場や麻布台ヒルズといった高難度案件への参画は、これらの取り組みの延長線上に位置づけられるものであり、当社の技術的評価を高める結果となりました。
2023年には、外部より招聘された清時康夫が七代目社長に就任しました。これまでに培われた基盤を礎に、外部視点を取り入れた組織改革と体質改善が進んでおり、経営基盤のさらなる強化と、持続的成長へ向けた体制づくりに取り組んでいます。
金本秀雄が六代目社長に就任
新国立競技場整備事業(第Ⅱ期工事)
‖「杜のスタジアム」のコンセプトを掲げ、鉄骨と木材のハイブリッド構造の屋根を持つ国際競技場です。
千葉第一工場の再整備を実施、事務所棟及び加工棟を新設
大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業A棟新築工事(常盤橋タワー)
‖東京駅前の景観を一新し、現在の大手町地区で最も高いビルとなる常盤橋タワーの建設に、鉄骨工事で参画しました。
東京証券取引所の市場見直しにより、東京証券取引所スタンダード市場に移行
筑波工場がPC部材品質認定制度でH認定を取得
川岸工事株式会社を吸収合併
虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業施設建築物A街区(麻布台ヒルズ森JPタワー)
‖高さ300mのあべのハルカスを抜き、2026年3月現在日本一の高さを誇る超高層ビルの建設に参画しました。
勝どき東地区第一種市街地再開発事業施設建築物A1地区新築工事(パークタワー勝どきサウス)
‖超高強度コンクリート(Fc=100N/mm²)を用いたPC製品を供給し、都心有数の超高層タワーマンションの実現に参画しました。
清時康夫が七代目社長に就任
梅田3丁目計画建設工事(JPタワー大阪)
‖大阪ステーションシティを構成するビルのひとつで、初代大阪駅の跡地に建つ新たな大阪の起点となるランドマークの建設に参画しました。
創業120周年
Our History in Data 数字で振り返る120年
時代ごとの変遷をデータで振り返ります。
施工実績や拠点、働く現場の変化から、積み
重ねてきた歩みを感じていただけます。
施工実績累計数
創業以来、川岸工業が積み重ねてきた
施工実績は
8,814件。
その一件一件が、信頼と技術の歩みを
物語っています。
8,814件
累計受注重量
120年の歩みの中で受注してきた鉄骨の
累計重量は
5,315,725トン。
見えない部分で都市を支えてきました。
531万5,725t
例えば…東京スカイツリー®(36,000トン/基)
が約150基分
高さ方向に換算すると約95km。
大気圏が100kmなので大気圏突破間近!
作業服の変遷
創業期の法被から作業服へ、そして120周年を機に刷新された現在の作業服へ。
3つの姿に、現場の進化と働く人の想いが映し出されています。
120年間で3回
首都圏超高層ビル高さランキングTOP30に見る
当社の参画割合
首都圏の超高層ビル高さランキングTOP30のうち、25件に川岸工業が参画。
日本を代表する超高層建築の多くに、当社の鉄骨技術が活かされています。
| 順位 | ビル名 | 高さ | 階数 | 完成年 |
|---|---|---|---|---|
| 1位 | 麻布台ヒルズ森JPタワー | 325.49m | 64階 | 2023年 |
| 2位 | 横浜ランドマークタワー | 296m | 70階 | 1993年 |
| 3位 | 虎ノ門ヒルズ ステーションタワー | 265.75m | 49階 | 2023年 |
| 4位 | TOFROM YAESU TOWER | 249.72m | 51階 | 2026年 |
| 5位 | ミッドタウン・タワー | 248.1m | 54階 | 2007年 |
| 6位 | 虎ノ門ヒルズ 森タワー | 247m | 52階 | 2014年 |
| 7位 | 東京都庁第一本庁舎 | 243.4m | 48階 | 1991年 |
| 8位 | NTTドコモ代々木ビル | 239.85m | 27階 | 1997年 |
| 9位 | サンシャイン60 | 239.7m | 60階 | 1978年 |
| 10位 | 東京ミッドタウン八重洲 八重洲セントラルタワー |
238.2m | 45階 | 2022年 |
| 11位 | 六本木ヒルズ森タワー | 238.06m | 54階 | 2003年 |
| 12位 | 新宿パークタワー | 235m | 52階 | 1994年 |
| 13位 | BLUE FRONT SHIBAURA TOWER S | 235m | 43階 | 2025年 |
| 14位 | 東京オペラシティ | 234.371m | 54階 | 1996年 |
| 15位 | 住友不動産 六本木グランドタワー | 230.76m | 43階 | 2016年 |
| 16位 | 渋谷スクランブルスクエア | 229.706m | 47階 | 2019年 |
| 17位 | 東急歌舞伎町タワー | 225m | 48階 | 2023年 |
| 18位 | 新宿三井ビルディング | 223.6m | 55階 | 1974年 |
| 19位 | 新宿センタービル | 222.95m | 54階 | 1979年 |
| 20位 | 聖路加タワー | 220.63m | 51階 | 1994年 |
| 21位 | 汐留シティセンター | 215.75m | 43階 | 2003年 |
| 22位 | 住友不動産 東京三田ガーデンタワー | 215m | 42階 | 2023年 |
| 23位 | 電通本社ビル(カレッタ汐留) | 213.337m | 48階 | 2002年 |
| 24位 | 常盤橋タワー | 212m | 40階 | 2021年 |
| 25位 | 新宿住友ビル | 211.381m | 52階 | 1974年 |
| 26位 | 新宿野村ビル | 209.9m | 50階 | 1978年 |
| 27位 | 東京ワールドゲート赤坂 赤坂トラストタワー |
209.14m | 43階 | 2024年 |
| 28位 | 東京ポートシティ竹芝 オフィスタワー | 208.83m | 40階 | 2020年 |
| 29位 | 赤坂インターシティAIR | 205.08m | 38階 | 2017年 |
| 30位 | グラントウキョウサウスタワー | 205m | 42階 | 2007年 |
※自社調べ。首都圏のみを抜粋、鉄骨造の高層建築に限る(2026年2月現在)。
工場変遷
工場配置の変遷を4つの時代で可視化しました。
時代の要請に応え拡大と再編を重ねながら築いてきた生産体制の歩みです。
Our Voice 社員の声
120周年の節目に社員へ聞いた、日々の仕事へ
の想いと未来へつなぐ言葉をご紹介します。
Q あなたが思う「川岸工業らしさ」は?
Q
仕事をしていて「やっててよかった!」
と感じた瞬間は?
Q 未来の後輩たちに伝えたいことは?
心躍る、
次の100年に向けて
創業から積み重ねてきた川岸工業の120年の歩みは、地盤を固め、基礎を築き、より高く、
より大きな鋼構造物へ挑戦してきた、誇り高きモノづくりの歴史です。
幾多の風雪や震災にさらされながらも人々の暮らしを守ってきた柱や梁には、技術と品質、
社員をはじめ、この120年に川岸工業に関わってきたすべての人々の想い、
そしてお客様からの信頼がしっかりと刻まれています。
これからの100年は、高さや大きさだけではなく、街を形づくり、
人々が安心して集える空間を創造する、新たな都市価値を届けていく旅となるでしょう。
変化の波が押し寄せる時代の中でも、私たちは「鉄骨で日本を支える」という誇りを胸に、
前へ進み続けます。
まだ誰も見たことのない景色への旅。わくわく・どきどきするような、新しい技術、
新しい価値観、そして新しい仲間との出会いが待っています。
挑戦を恐れず、変化を楽しみながらモノづくりを育て、鉄骨で次世代に誇れる未来を支える
——川岸工業は次の100年に向けて動き出しています。
1906年3月 明治39年 沿革
初代社長・川岸太一郎
――大阪での挑戦、「川岸工業所」創業
川岸太一郎は、1882年5月奈良県五條市に生まれました。青年期に大阪に居を移し、気さくで面倒見の良い人柄から、多くの人々に慕われました。
のちにその人柄を慕う人々が太一郎のもとに集い、1906年3月22日、建築請負業「川岸工業所」を創業します。創業当初は加工場を持たず、鳶職や現場鍛冶、焼鋲などの請負を中心に事業を展開していました。
現在のロゴマーク「TK」は、創業者・川岸太一郎の頭文字に由来しています。九州進出という念願を果たしたのち、1941年に59歳でその生涯を閉じました。
1934年 昭和9年 工事実績
八幡製鐵所第一製鋼工場追加鉄骨工事
――念願の九州進出
施主や各建築業者の支援を受けながら、本州各地で着実に実績を重ね事業基盤を広げていきました。しかし、当時発展著しかった九州への進出は、長らく実現できずにいました。
1934年に八幡製鐵所第一製鋼工場追加鉄骨工事を請け負い、ついに念願の九州進出を果たします。以降、海軍鹿屋航空隊第一期格納庫新築工事や八幡製鐵所第四製鋼工場第二期増築鉄骨工事などを次々と受注し、九州での信頼と地歩を確立しました。やがて福岡県戸畑市に出張所を設け、九州拠点の礎を築きました。
1936年5月 昭和11年 沿革
九州の地に初の工場
――戸畑から始まった生産の歩み
当社の工場の歴史は、1936年に戸畑市中原(現・北九州市戸畑区)の出張所裏に設けた作業場に始まります。これは、九州進出に伴って設置したもので、当時はまだ簡易的な作業場でした。その後、1947年に出張所が支店へ昇格したことを契機に、この作業場は本格的に工場として整備されました。
設立当初の生産能力は月産約300トンとされていますが、のちに従業員約250人、月産1,200トンを誇る規模へと発展しました。その後、千葉工場の設立にあわせて戸畑工場は閉鎖され、多くの従業員が千葉工場へと移りました。
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工事中の勝鬨橋
写真:東京都建設局所蔵 -
建設中の信濃川千手発電所
資料提供:JR東日本
資料提供:田邉貴教様
1941年12月 昭和16年 沿革
二代目・川岸重義
――会社を近代化した社長
川岸重義は、初代社長・川岸太一郎の長男として、1911年3月、大阪市東区空堀町に生まれました。大阪市立都島工業学校土木科(現・大阪府立都島工業高等学校)を卒業後、公務員勤務を経て、川岸工業所に入社しました。
太一郎の逝去に伴い、30歳で社長に就任。在任中は、会社の近代化と事業基盤の強化に尽力し、個人経営を法人化して1947年3月22日に「川岸工業株式会社」を設立しました。しかし、会社設立翌年の1948年に、近鉄奈良線列車暴走追突事故に巻き込まれ、37歳で急逝しました。そのため、妻の川岸文子が二代目代行となりました。
1947年3月 昭和22年 沿革
法人化による近代化
――株式会社としての始まり
戦後の事業近代化を図り、個人経営から株式会社へと改組して、1947年3月22日、「川岸工業株式会社」が設立されました。
この時期、大阪を中心とした本州・四国方面の事業を二代目・川岸重義が統括し、九州の業務は義弟で常務の工藤栄が総括する二拠点体制で会社運営していました。同年発行の「大阪商工会議所 大阪商工会名録 昭和22年版」には、川岸工業のほか、現在の大手鉄骨ファブリケーターに繋がる企業の名も見られ、戦後の建設業界が再び動き出す時代であったことがうかがえます。
1952年9月 昭和27年 沿革
三代目・工藤栄
――全国区鉄骨企業への成長を支えた社長
工藤栄は、1914年に香川県白鳥町(現・東かがわ市)で生まれました。1932年に旧制大川中学校(現・県立三本松高校)を卒業後、1933年に川岸工業に入社。入社後、初代社長・川岸太一郎の娘と結婚しています。
1936年、福岡県戸畑市に出張所を開設すると所長として赴任。以後、戦前・戦後の北九州での業務を多く手がけ、経験を積みました。
1952年、二代目代行・川岸文子の後を受け、実務全般を担ってきた工藤栄が三代目社長に就任しました。在任中は高度経済成長期の追い風を受け、事業拡大路線を推進。九州、宮城、中国、大阪、関東など、需要が見込まれる地域に次々と工場を設立し、川岸工業を全国区の鉄骨製作企業へと押し上げました。
出典:岩波書店『日本の地理 第7巻』
出典:戸畑市史
1960年 昭和35年 工事実績
ブラジル・ウジミナス製鉄所鉄骨工事
――国際プロジェクトへの挑戦
日本とブラジル両政府が推進する国家プロジェクトとして計画されたブラジル・ウジミナス製鉄所の建設は、当時日本最大規模のプラント輸出といわれ、大きな注目を集めていました。
各社の注目が集まる中、日本側投資会社「日本ウジミナス株式会社」の中心であった八幡製鐵や富士製鐵の関連工事を川岸工業が数多く手がけ、技術力と信頼を築いてきた実績が評価され、工事の受注に至りました。このプロジェクトを通じて海外での施工経験をさらに積み重ね、技術力と信頼を一層強化する契機となりました。
1963年5月 昭和38年 沿革
千葉工場
――首都圏進出の拠点となる大型工場を建設
高度経済成長に沸く首都圏での鉄骨需要の拡大と八幡製鐵君津製鐵所建設工事の受注を見据え、1963年、社運を懸けて千葉に大型工場を建設しました。
その生産能力は当時の主力・牧山工場と並ぶ月産2,500トンを誇り、首都圏での本格的な事業展開を支える拠点となります。以来、千葉工場(現・千葉第一工場)は当社の中核を担う主力工場として、東京スカイツリー®や常盤橋タワーなど、時代を象徴する数々の高層建築に携わってきました。創業から培った技術と信頼を礎に、いまもなお首都圏の発展を支え続けています。
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建設中の千葉工場 -
現在の千葉第一工場
左 建設中の千葉工場 右 現在の千葉第一工場
1964年 昭和39年 工事実績
ホテルニューオータニ――ロールH形鋼を用いた
先駆的高層建築への挑戦
1964年の東京オリンピックに際し、外国人来訪者の受け入れ施設として計画・建設されたホテルニューオータニは、当時としては国内最高層の17階建てビルディングでした。
この工事では、1959年に国内製造が始まったロールH形鋼が主要構造材として採用されており、当社も初めてこの新しい鋼材を用いた鉄骨製作を手がけました。高層建築技術が急速に発展する時代の中で、当社にとって技術革新に挑む象徴的な工事となりました。
資料提供:株式会社ニュー・オータニ
1966年7月 昭和41年 沿革
西日本生産体制の強化
――大阪・中国地方への展開
1960年代後半、大阪万博の開催や神戸製鋼所の製鉄所建設などにより、西日本地域では鉄骨需要が急増しました。当社はこの需要を見込み、羽曳野市にあった鉄工所の工場を買収して大阪工場を設立しました。同時期、日本鋼管福山製鉄所の需要に対応するために開設した福山作業所は、業容の拡大に伴い工場へと昇格しました。
さらに、広島支店と大阪支店を新設することで営業基盤を確立し、西日本全体をカバーする生産体制を構築しました。
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日本鋼管福山製鉄所 -
川崎製鉄千葉製鉄所
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八幡製鐵君津製鐵所 -
神戸製鋼所加古川工場
1968年4月 昭和43年 沿革
東京進出による生産拠点の確立
――現在の工場配置の原型が形づくられた時期
東京への進出により、ビル鉄骨の受注が拡大していく一方で、長年にわたり培ってきた鉄鋼・電力関連の設備投資工事における強みと信頼は揺らぐことがありませんでした。京葉・京浜地区では引き続き高い需要があり、八幡製鐵君津製鐵所や川崎製鉄千葉製鉄所などで鉄骨工事を受注しています。
こうした需要の高まりに対応するため、1968年に千葉第二工場を、1970年には千葉第三工場を設立しました。さらに、新日本製鉄君津製鉄所所内の君津工作所の閉鎖に伴い、1971年には近隣の市原市に市原工場を新設しました。これら一連の拡張によって、現在の川岸工業鉄骨工場の配置の原型がこの時代に形づくられていきました。
1969年7月 昭和44年 工事実績
本社ビル
――本社機能の拡充に伴う川岸会館の建設と移転
千葉工場や千葉第二工場の設立により首都圏での生産体制が整うと、東京での営業活動も急速に拡大しました。その需要拡大に伴い、本社機能の強化が急務の課題となりました。
これを受けて、東京都港区東新橋に「川岸会館ビル」を建設し、本社を銀座から移転しました。この移転は、東京を中心とした事業展開をさらに加速させる拠点整備の一環であり、首都圏での成長基盤を確立する大きな節目となりました。
1971年8月 昭和46年 工事実績
森永エンゼルプラザービル新築工事
――BOX造による超高層建築への第一歩
創業75周年の記念事業として、森永製菓は新本社ビルの建設を計画しました。当時、東京都内で5番目の高さを誇るBOX造の超高層ビルとして注目を集めました。
当社は、この計画以前にも2件のBOX造鉄骨を手がけていましたが、超高層ビルへの採用は本工事が初めてでした。難易度の高い構造でしたが、当社は持ち前の製作技術を最大限に発揮し、高い精度と品質の両立を実現。この工事は、当社が国内有数のBOX造鉄骨製作メーカーとして歩み始める転機となった記念すべき案件です。
出典:横河橋梁技報 第2号 1972年11月発行 3ページ
1971年 昭和46年 工事実績
柏駅東口市街地再開発施設鉄骨工事他
――地域発展に寄与した柏駅周辺再開発への参画
柏市では、急激な人口増加に対応するため、駅周辺の大規模な再開発が進められました。当社は、柏に3つの工場を有していたことから、これらの再開発計画の多くに参画しました。
主な施工実績には、日本で初めて駅前に設置された高架歩道(ペデストリアンデッキ)である「ダブルデッキ」をはじめ、柏駅駅舎、柏そごう本館、柏高島屋、日本屋ビル、イトーヨーカドー、長崎屋などがあります。
出典:柏市教育委員会
1972年 昭和47年 沿革
四代目・福島勲
――堅実経営で再建を果たし、鉄骨生産量日本一へ導いた社長
福島勲は、旧制東京工専(現・千葉大学工学部)を卒業後、間組を経て日本発送電(のちの九州電力)に勤務しました。
川岸工業が受注した工事を通じて当時の社長・工藤栄と出会い、手腕と人柄、才能を高く評価され、工藤の長女と結婚。その後1957年に川岸工業へ入社しました。
入社直後に東京出張所長および川岸鉄工副社長に就任し、後に東京支店長として東日本での基盤を築きました。社長就任後は負債を圧縮し、無借金経営と称される堅実な体質を確立。70~80年代には新技術の導入で高層建築の実績を重ね、エジプト等の海外大型案件にも参画しました。
結果として鉄骨生産量日本一を達成し、経営の安定と持続的成長の基盤を築き上げました。
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竣工時の岡山工場 -
現在の岡山工場
1982年 昭和57年 工事実績
国際舞台への挑戦
――技術と信頼で築いた実績
1980年代に入り、バブル景気を迎えると、当社は国内の建設工事に加え、海外での鉄骨工事も数多く手がけるようになりました。
当社の海外工事への進出は、1955年のフィリピン製鋼工場や1960年のブラジル・ウジミナス製鉄所の鉄骨工事など、比較的早い時期から始まっていましたが、当初は受注量も限られていました。
しかし、バブル期に入ると海外案件が急増し、エジプト・アレキサンドリアナショナル製鉄所の建設工事やイラク合同庁舎鉄骨工事などの海外の大型プロジェクトを通じて、技術力と信頼をさらに確かなものとしました。
1986年 昭和61年 沿革
千葉第一工場Sグレード認定取得
――高品質を維持し続ける鉄骨製作体制
高層建築や大型建築の増加に伴い、鉄骨製造に求められる品質の水準は年々厳しくなっていました。こうした背景のもと、鉄骨製作工場が適正な品質の建築鉄骨を生産・供給できることを証明する制度として、国土交通大臣による鉄骨製作工場認定制度が開始されました。
この認定制度における最高位がSグレードです。建築規模の制限なく高品質な鉄骨を提供できる工場として、高度な技術力と設備、品質管理体制が求められます。
当社の千葉第一工場は、この制度においていち早く最高位のSグレードを取得。現在に至るまでその最高位を維持し続け、日本を代表する超高層ビルや大空間建造物に携わっています。
1990年 平成2年 工事実績
技術と信頼で鉄骨生産量日本一へ
――超高層建築で示した力
東京を中心に数多くの超高層建築案件に参画する中で、当社は次第に鉄骨製作分野で国内有数の企業へと成長しました。
その象徴的なプロジェクトが、東京都第一本庁舎(高さ243メートル)です。竣工時にはサンシャイン60を抜き、日本一の高さを誇る超高層ビルとして注目を集めました。こうした実績の積み重ねにより、当社は技術力と信頼を確立し、この時期、鉄骨生産量で日本一となりました。
1991年9月 平成3年 沿革
新たな領域への挑戦
――プレキャストコンクリート(PC)分野への進出
当社はそれまでの鉄骨専業体制から一歩を踏み出し、筑波工場を設立してプレキャストコンクリート(PC)分野へと進出しました。
鉄骨と同じ建築関連製品の製造でありながら、異なる分野への展開は、生産技術の幅を広げる新たな挑戦でもありました。この多角化によって、堅実な経営基盤のもとに技術力をさらに高め、より強固で安定した生産体制を確立しました。
1996年12月 平成8年 沿革
五代目・川岸隆一
――鉄骨需要減少期を切り抜けた社長
川岸隆一は、奈良県生駒市で幼少期を過ごしましたが、早くに父を亡くし、叔父の工藤栄を頼って九州で成長しました。
明治大学を卒業後、1963年に川岸工業へ入社し千葉工場に勤務。1979年に千葉第三工場長として取締役に就任し、1982年営業部長、1993年常務を経て、1996年に社長に就任しました。
社長在任中は鉄骨需要が低迷する厳しい時代でしたが、生産調整と堅実な経営により企業を安定させました。
2002年 平成14年 工事実績
短納期という挑戦
――技術と信頼で築いたランドマーク施工
戦前期では日本最大のビルであり、「東洋一のビル」と称された丸ノ内ビルヂングの建替えは、日本の建設現場で初めて昼夜交代制を全面的に導入した大規模プロジェクトでした。
従来の昼間施工に比べて短納期が強く求められる工事でしたが、当社は持てる機動力と高度な鉄骨施工技術を駆使して対応しました。
1999年に着工し、2002年に竣工。延床面積約4万平方メートルに及ぶ本建物は、低層部に旧丸ノ内ビルヂングの意匠を継承しつつ、高層部に最新の構造技術を取り入れた超高層ビルとして完成しました。
2012年 平成24年 工事実績
技術力の証
――東京スカイツリー®で示した挑戦と信頼
高さ634メートル、自立式電波塔として世界一の高さを誇る東京スカイツリーの建設プロジェクトに参画。当社はタワー全体を支える基礎部にあたる鼎(かなえ)部分の鉄骨製作を担当しました。
ここでは、標準的な鉄骨の約2倍の強度を持つ「高強度鋼管」が採用され、直径2.3メートル、板厚100ミリという巨大かつ極厚の部材を高精度で製作する、極めて難易度の高い技術が求められました。本プロジェクトは、当社の技術力を示す絶好の舞台となりました。
2008年に着工し、2012年に竣工した東京スカイツリーは、完成後、地域と日本を代表するランドマークとして親しまれています。
2015年12月 平成27年 沿革
六代目・金本秀雄
――持続する製造体制を築いた社長
金本秀雄は、昭和25年に北九州市で生まれ、九州工業大学を卒業後、1973年に川岸工業へ入社しました。千葉第一・徳山両工場や工務部で経験を積み、千葉第五工場の新設にも管理課長として参画しています。
その後、各工場長、工務部長、製造本部長を歴任し常務取締役に就任。中国支店長、専務取締役西日本地区担当を経て2015年に社長に就任しました。就任後は人材確保が難しくなる業界環境の中で、省力化技術の導入や工場設備更新を進め、技術継承にも力を注ぎました。
2019年 平成31年 工事実績
新国立競技場
――国家プロジェクトを支えた確かな鉄骨技術
東京オリンピック・パラリンピックの主会場として建て替えが進められた新国立競技場は、「杜のスタジアム」のコンセプトを掲げ、鉄骨と木材のハイブリッド構造が注目されました。
当社もこの難易度の高い工事に参画し、3DCADなどの新技術を活用して精度の高い製品を供給しました。2016年に着工し、2019年に竣工した競技場は、東京2020オリンピック・パラリンピックで多くの人に感動を与えました。
2023年12月 令和5年 沿革
七代目・清時康夫
――外部視点で組織改革を進める社長
清時康夫は、慶應義塾大学を卒業後、1979年に丸紅へ入社し、鉄鋼分野を中心に商社で幅広い実務経験を積みました。その後、伊藤忠丸紅テクノスチール株式会社の鉄構建材部で当社との関係が生まれ、当社の社外役員も務めています。
2022年に顧問として当社へ着任し、同年に常務取締役、翌2023年に社長に就任しました。就任後は、社内で長年見過ごされてきた慣習や非効率に着目し、2024年には第1次中期経営計画を策定・公表するなど、外部出身ならではの視点と実務感覚を生かして、組織全体の改善と活性化に取り組んでいます。
2003年10月 平成15年 沿革
組織体制の集約と拠点再編
――管理機能の統合による効率化の推進
需要低迷が続く経営環境のもと、当社では管理機能の集約と拠点体制の見直しを段階的に進めました。
2004年には、東京支店と各工場に分散していた総務・経理業務を統合し、千葉第一工場の敷地内へ集約しました。これにより、管理部門の効率化と意思決定体制の明確化が図られました。
西日本においては、2003年に広島市に所在していた広島支店を山口工場敷地内へ移転し、中国支店へ改称しました。さらに2013年には大阪支店を中国支店に統合し、拠点機能の集約を推進しました。翌年の2014年には同支店を西日本支店へ改称し、西日本エリアにおける体制整備を完了しています。
2020年 令和2年 沿革
千葉第一工場の再整備
――設備更新による生産基盤の強化
1963年の設立以来、同地で操業を続けてきた千葉第一工場は、築50余年を経て、建物および設備の各所に老朽化がみられる状況となっていました。
こうした課題に対応するため、省力化設備の導入と既存設備の更新が進められました。2017年には、新たなBOX角継手専用二電極サブマージアーク溶接装置を増設しています。
さらに2020年には工場敷地の再整備を実施し、事務所棟および加工棟を新設しました。これらの取り組みにより、生産環境の改善と基盤機能の強化が図られています。
1947年3月 昭和22年 沿革
地域生産体制の確立と工場網の拡大
――九州・中国地方への拠点展開
北九州地区では、戦後復興に伴い工場群の再整備が進み、建築需要が高まりました。これに対し当社は、需要が見込まれる地域へ順次生産拠点を設け、迅速な製品供給体制の構築を進めました。
その取り組みは、1947年の戸畑工場設立に始まり、九州地区における9工場体制の確立へと発展します。
さらに中国地方へも展開し、八幡製鐵光鋳造所の鉄骨工事受注を契機に、1957年には下松工場を新設しました。同工場は後の山口工場へと発展しています。続いて1960年には福山製鉄所向けの対応強化として福山作業所(後の岡山工場)を開設し、地域に根ざした生産体制を確立しました。
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牧山工場